『哲学の味わい方』

竹田青嗣西研『哲学の味わい方』現代書館、1999

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 竹田と西の対談とは言いつつもほとんど竹田主導で話が進んでいくのは、やはり10歳という年齢差ゆえか。
 それはさておき、題名が哲学の「味わい方」となっている理由について考えてみた。

竹田「思想の難解さや巨大さということをどうやってうまく引きはがして、考え方の芯を取り出せるかということにやはり思考の命があるし、もしそういうよい方法がなければ人間は、とくに若ければ若いほど、知の難解さや膨大さということには勝てない(p.19)」
 そのために必要なのが、「味わう」ということなのだろう。
 竹田は、我々はみな自分の物語を持って生きており、そのこと自体には何も問題はないし、必然的なことであるという。
竹田「ある物語によっていまの自分の具合の悪さを克服するというのはじつはよくある形だよね。……新興宗教なんかそういう形で、じつはあなたはこういうことなんですよと。あなたの存在の意味はこうでじつはこういう風に生きればあなたは楽になりますよと。……それは原理的にはどういうことかと言うと、新しい物語によって前の物語を克服したわけだから、今度はある意味ではもっと自分に都合のいい物語にまた乗り換えるかもしれない。つまり自分を物語において了解しているかぎり、他のさまざまな物語を持つ人と開かれた関係をとっていくということが難しいわけです。たいてい自分のいまの物語を知らないうちに絶対化することになるから(p.68、強調引用者)」
 その問題に対して、有効な手立てを与えてくれるのが「現象学」だと竹田は言う。
竹田「……これだといつまでたっても同じで、……諸信念の間の関係の原理はつかめない。つまり、一つの物語が苦しくなったときに別の物語でそれを乗り越えるのではないような仕方で、どうやって考え直せるか。……で、それと現象学の考え方とがうまく重なったわけです。はじめに必要なのは、まず自明の物語を留保すること、次に大事なのは、ある物語を支えている動機が何か、という観点ですね(p.74)」
竹田「だから現象学を単に学として読んだだけの人は、ぼくらがこんなふうに言ってると、あいつら現象学をいい加減に解釈して好きなように使い回していると思うかもしれないけど、それは哲学というものを自分のモチーフから読んだことのない人だと思う。……文学というのはもうそういう側面なしには成り立たない。批評するというのは、自分のモチーフで作品を照らしてみることだからね。哲学でも思想でもそういうのは変わらないんです(p.81)」
 つまり、それが「味わう」ということなのだと思う。この本を読んで、今まで竹田に持っていたある種の偏見が取り払われた気がする。よく彼は「哲学を口当たりよく説明し、その思考の過程にあるスリルや驚き、喜びを骨抜きにしている」という批判を受けるが、彼にとってはそれよりも哲学をどう使うかということの方が重要な問題である以上、かみ砕いた解説を一般の人に理解してもらうべきだと考えるのは当然であろう。

 とまあそれはそれとして、同時にある疑問が頭をよぎる人も少なくないだろう。それは「竹田の現象学解釈も一つの『物語』ではないのか?」ということだ。一般に、現象学は「厳密な基礎づけのための学」として理解されている。竹田はそれを「誤解」として退ける。果たして、現象学を巡る両者の「物語」に対し、「現象学」が有効な手段として機能すると竹田は思っているのだろうか。

 以上の内容が第1章である。第2章「恋愛論」・第3章「就職論」・第4章「社会論」・第5章「自我論」と続くが、2・3章はいささか無惨な出来。恋愛論と銘打っているのに結局中身は「失恋って今思えば結構大事だよね」程度。就職論も次の社会論に包摂されるべき内容になっている。4・5章に関しては、回を改めてまた書く予定。