ああFitzsimons

 Mr. Fitzsimonsの授業でなにがしかの英語論文を書かなければなりません。不安爆発です。まあ不安は年中爆発しているので、それはそれとしても、英語で書かなければならないのはつらいです。
 それ以前に、「文学で論文を書くってどういうこと!?」というのが本音という、極めて恥ずかしい状況にあります。いや、実はレポートを書くということですらよくわかっていないのかもしれません。
 「問い+答え+論拠」というのが論文の必須要素なわけですが、果たして文学における「問い」とはなんぞや、という問いで頭の中がぐらんぐらんしています。問いのかたちもわからなければ、Fitzsimonsの言う「問う意味のある問い」「役に立つ問い」というのも余計にわかりません。困った!

 とりあえずFitzが"You have to focus on a specific auther, a specific book, a specific issue."みたいなこと(英語は再現できない!)を死ぬほど繰り返していたので、扱う作品はWilliam Faulkner, The Sound and the Fury に決めました。何が好きってQuentin編の緊張感を伴ったぐちゃぐちゃ感です。Caddy, Caddyと連呼するQuentinの心理は、推し量るにはちょっとつらいものがあります。
 この作品は、いわゆる「意識の流れ」という手法を用いた作品として有名です。Benjy編とQuentin編はともにこの手法を用いて書かれていますが、その書き方は少し、いやかなり異なっています。その差がQuentin編の読後感に何らかの影響を及ぼしているような気がするんですが、これって論文書く種になるのかなあというのが目下の心配です。
 BenjyとQuentin(とJason)は、かなり多くの面で、きれいな対称をなしているように思います(当たり前?)が、一つ重要な軸を取り出して比較することで、何か意味のある解釈が取り出せそうな気もするんですが、具体的にはさっぱり見えてきません。例えば「現在を生きるBenjy、過去を生きるQuentin、未来を生きるJason」というのはほぼ間違いのない見方だと思いますが、じゃあここから何が言えるのかとなるとショボンです。

 ここまで書いてきて、これじゃあこの作品知らない人には全然伝わらない内容になっていることに気が付きました。すいません。続きはまた明日(以降)。