一年の概括

 2004年も今日で終わりです。締めにあたって、一年を振り返ってみたいと思います。

 1月: 熱が出た。学科選びに悩む。
 2月: 工学部建築学科への進学を考える。
 3月: みんGOL3にはまる。R-CAPやる。進学悩む。
 4月: 二年生になる。学科悩む。かなり沈み込む。
 5月: 相変わらず沈む。建築を諦め哲学・倫理学を考える。Kとよく話す。
 6月: 21歳になる。一時帰郷したとき(?)悲惨な状況に陥る。
 7月: 何とか試験を乗り切る。英文科に行こうと考える。
 8月: 札幌に帰る。田舎で働く。浮上の兆し。
 9月: 友人らと山陰に旅行。いい思い出になる。英文科進学内定。
 10月: 再び東京へ。冬学期。不安を抱えながらの毎日。
 11月: 学生生活の見通しに少しだが明るさを感じる。
 12月: 読書量も一時期の水準まで戻る。
 通年: 体調不良。不規則な生活。午前中に目が覚める日はほとんどなく、下手をすれば夕方に起床するような生活。

 いざ振り返ってみると、過去の記憶があまりに薄れているので驚きました。過ぎ去ったことは過ぎ去ったこと、ということですね。そこから何かを拾って歩くためには、やはり何らかの記録を付ける必要があります。今後はこまめに日記を付けたいと思います。

 さて、今年のことで語りたいことはいくつかありますが、とりあえず英米文学に進学したことに関して少し補足をします。入学以来漠然と進学したいと思っていたのは哲学科です。それは、極めて大雑把に言えば「哲学が自分を救ってくれる」と思っていたからです。これは勘違いでした。本当の哲学は(といっても、何をもって哲学とするかは人それぞれでしょうから、あくまで私にとってはということです)、「今」「ここに」「あること」に収斂する類の問いを扱うことではあっても、「どう生きるか」といったいわゆる人生哲学のようなものではないのだと結論づけました。哲学科は人生哲学を学ぶところではもちろんないし(むしろそれとはほど遠い世界でしょう)、僕が真性の哲学的問いを抱えて生きているわけでもないのです。したがって、哲学科に積極的に進学する理由はなくなりました。

 では、なぜ倫理学でもなかったのか。これは微妙な問題です。進学しても良かったのかもしれません。僕が解するところの倫理とは、「語られ得ない」という構造を持ったものです(このことは決して倫理学が無意味であるなどということを主張するものではありません。むしろ、大いに積極的に考える意味があると思っています)。それゆえに、20歳やそこらの人間が(それも人生経験の極めて浅い学生が)取り組んでどれだけのものが得られるのかと疑問に思いました。今の自分に、大学の倫理学科という枠の中で、どれほどのことが問いとして許され、どれほどの答えが出せるというのでしょうか。哲学が子どもの問いであるとすれば、倫理学は大人の問いです。今はまだ、真っ向から取り組むには若すぎるように思いました。と同時に、大学でなければ学べないような要素は、僕が考える倫理学には存在しないと判断しました。

 では、英米文学に進学を決めた理由は何か。僕にとって倫理学が重要であるということは変わりありません(詳しく述べる機会もあると思います)。ならば、学説としての伝統的倫理学を学ばずとも、小説の中から倫理的要素を拾い出して読んでもいいのではないか、と考えました。倫理の中には普遍的なものもあれば、時代・状況に左右されるものもあります。普遍的なものをじっくり焙り出すのであれば、いつの時代のものを読んでも構わないと思いますが、僕はやはり現代に近いものを読みたい。となれば本来の本命であるべき国文学は、時代的制約により除外されざるを得ません。そこで、外国文学に目を向けたとき、最もとっつきやすくかつ日本の現代文学に似たものは??と考えて出てきたのが現代アメリカ文学です。僕はもともと村上春樹の愛読者ですが、彼の作品もかなりアメリカ文学に近い雰囲気があります(少なくとも文体はいかにもなアメリカ文学です)。
 そういう流れで英米文学への進学を決めたわけですが、少なくない心配事もあります。挙げればキリがないですが、「英語で読まなければならないこと」「あくまでアメリカという国の文化に育まれたものを読むということ」は大きな悩みの種です。

 調子に乗って書きすぎましたので締めます。今年は前半の異常な落ち込みぶりに反して、予想外に(少なくとも気分的には)上々な締めくくりを迎えることが出来たように思います。来年の抱負も(実は)いくつかあるのですが、それはまた来年。それでは、良いお年を。